自作短歌@題詠マラソン2005/033~037

033 : 魚
将来を眺める君と私の目 魚眼レンズのこちら側より

034 : 背中
この背中(せな)をそっと支える神さまのみ手のぬくもりまた秋がきた

035 : 禁
パラソルをかざす角度も傾いて“おんな”解禁の季節なのです

036 : 探偵
「探偵が犯人だった」三十年かかって解いた我がストーリー

037 : 汗
姿なき馬のいななき古の汗(ハーン)の眠る草原に消ゆ

ド演歌としての私の短歌

 先日こちらの記事で「短歌って何?」なんてぼやいていたのですけれども、そんなワタクシに一つの回答を示してくださったのが、丹羽まゆみさんのブログでした。

 「定型と非定型」-二進法の恋-

 引用させていただきます。

韻律は短歌の音楽的側面であり、かつ魅力の半ば以上を
占める大切な要素であるといわれている。
短歌は、57577という音数から成る短詩型である。
合計すると31音であるが、この31音は結果としての
数に過ぎない。
重要なのは、あくまでも57577という<切れ目のある
一定音数の反復>である。
57577は千年以上の歳月に耐えて残った形式であって、
私たちは経験的にこれを最良の形式として受容している
のである。


 ナルホドと思いました。短歌って文字通りの“歌”なのですね。

 別の記事だったかコメントだったかは忘れましたが、丹羽さんが短歌の形式を「四分の四拍子/五小節」と表現されていたのも、とてもわかりやすく、腑に落ちました。

 人はどんな時に歌を歌いたくなるのだろうか。何の為に歌を歌うのだろうか(たとえば、「情報を伝えるために歌う」というのは違うと思うし。情報伝達には歌以外に最も適した方法がありますから)。それを考えれば、おのずと短歌の定義も、自分が短歌に求めるべきこともわかってくるのではないかと思いました。

 私は自分を、本質的に散文書きな人間だと思っています。そもそもネットを始めた動機も、小説やエッセイなどの長文を発表する場が欲しかったからなのでした。

 が、ある時を境に、散文を書く目的や動機が変わった。散文で自分を表現しよう、散文に本音を託そうとはしなくなったのです。今や小説を自分のために書くなんてことはあり得ません。楽しいけれども、小説は純粋な意味での「私のモノ」ではなくなりました。

 だからこそ、歌いたいのかもしれません。ヘタでもいいから、声を張り上げ、私だけの歌を歌いたい。

 憧れのド演歌を歌うような気持ちで、マラソンの残りのお題に向き合ってみようか。口語だと感情の迸りを抑えられない時があるので、どうしても定型を乱してしまいがちなのですけれども、短歌の音楽的側面をもっと意識するためには、できる限り57577にこだわってみることも、やはり必要なのかもしれません。

 那賀神哲さんのこちらの記事短歌あれこれ・・・定型について /吾が思ふままにでも丹羽さんの上記の記事について触れられていて、少なからず共感してしまいましたので、トラバさせていただきました。

(那賀神哲さんには私の拙い短歌にいくつかコメントを頂いていたのでしたっけ。お礼を申し上げるのが遅くなってしまいました。本当にありがとうございました)

題詠マラソン2005感想 -- 過去log19より

079:ぬいぐるみ 謎野髭男
ボロボロのぬいぐるみをば片時も離さぬ子らの怯えしものは
 本当に、私も何に怯えていたんだろうと思う。実はいい年していまだに怯えているのです。でもその実体がわかりません。

004:淡(再投稿) 村本希理子
友情は淡くしづかに歯を立てていちごみるくを壊す放課後
 恐らくは最初から、友情などではなかったのかも。子ども時代を振り返ると、自分の周囲も嘘で塗り固められていたっけなぁと思います。でもいつかは、崩れていくんですよね。甘い嘘も。

010:線路 五十嵐きよみ
思いきり反抗しても線路からはじき出された小石に過ぎず
 はじき出されるのって実は幸運で、チャンスなんだと、最近になってようやく気づきはじめた私です。

003:つぼみ 田丸まひる
乳白のつぼみを間引く 誰にでも愛されているなんて思うな
 愛して欲しいという悲鳴、SOSが聞こえてくる。

041:迷 尾崎弘子
だから単なる余興ですから迷宮に泣いてても私を放つておいて
 人生という迷宮を彷徨い号泣していても、どこかで余興だとわかっている。そんな余裕が生まれてきた昨今の私。三十を越えたら一気に生きるのが楽になってきたなぁ。

027:液体 春日山
液体が気体となりて天へゆきまた還りくる雨となる時
 イタイのを承知で白状すれば、私の死生観もこんな感じで。たまに「いい年して精神が幼い」と言われる所以。
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